23日の夜半に祖母が逝った。86歳。
その日の夕方まで近所の友人宅をうろうろしたり畑の世話をしたりして帰宅し、夕食も入浴もいつもどおり終えた後テレビの前でうたた寝したまま逝っていた。朝から起きてこないので家人が様子を見に行ったときにはもう冷たくなっていたのだそう。その話を聞き直ぐに子供二人を連れて喪服を詰め込み電車に飛び乗る。移動中は祖母との思い出が次々に浮かんできて涙が止まらない。
朗らかな働き者。戦前戦後偏屈だった九州男児であった祖父を支えてそして長年看病した後見送った祖母。人情に厚くてあちこちに出向いては色んな人の世話を焼いていた。子供の頃は祖母の家に泊まれば一緒に足を摺り寄せてもらって眠ったし、私がお産をしたときには誰よりも早く駆けつけて乳房をマッサージして子供の口へのふくませ方なんか教えてくれたりもしたなあ。そしてその性格やしぐさは私に受け継がれていると親類のおばさんたちからよく言われたものだった。つい先日まで元気だったのに、その祖母がもういないということが嘘のようだった。
実際その祖母の亡骸を目にすると死んだのはやっぱり嘘だったんだと思わせるほど眠っているだけのような穏やかな顔をしていて、苦しまずに眠るように逝ったということが判るようで少し救われる。それでも祖母の部屋に入ると何もかもが生活の途中といった感じで戸惑う。食べかけのお菓子。飲みかけの湯飲み茶碗。卓の上にさりげなく置いてある老眼鏡。転がったままの籐の枕。まだ漂っているばあちゃんの空気が手に取るようで胸が締め付けられるようだった。そしてその眠っているだけに見える祖母をいつまででも揺り起こそうとしていたという母の気持ちを考えるといたたまれなかった。けれどあれだけ人の世話は焼いていたというのに、誰の手も煩わせることもなく、苦しまずに自宅で潔く人生の最後のときを迎えたというのがいかにも祖母らしくって、死に様は生き様というけれど全ての人生がそこに集約されてるみたいで自分も見習わなければなどと思う。
我が家の子供たちは私と共に手を合わせ、通夜を経て少しずつ変化していく亡骸、悲しむ人々を眺め、やがて灰と骨になった肉体を最初から最後まで見ていた訳だけど色々と感じるところがあった様子。「何故、何故・・・」と四六時中容赦なく私に色々な質問を浴びせかけた。私はその一つ一つに私なりの解釈で噛み砕いて解りやすく子供たちに説明してあげることが供養の一つのような気がして悲しみに暮れながらも頭を常に働かせなければならなかった。
昨夕新幹線にて帰宅。隣に座ったアメリカ人観光客は、私がうたた寝しているのにもかかわらずいろいろと話しかけてきて聞いてもいないのに色々としゃべる。自分たちはアメリカからやってきて広島、京都と観光してまわっていると言ったかと思うと今度はこちらのことを根掘り葉掘り聞いてくる。どこに行くのか、どこからの帰りなのか、なんの為に出かけたのか・・・。娘たちにキャンディーまで握らせて聞いて来るので「祖母のお葬式の帰り」と伝えると、いくつだったのか?と尋ねてくる。86というと「good!」と一言。そう、苦しまずに86は大往生だったのかもしれない。でもまるで突然切れた凧糸みたい。地上にいる私たちは飛んでいく凧をただただ眺めているしかなかったのだよ。突然のことで戸惑ってしまったよ。けれどもう大丈夫。どうぞ安らかに。

こうして今年の夏休みも終わり。