今年の夏は本当に暑かった。昨年に引き続き6月末に出場した函館マラソンは、少し涼しくて走りやすかった昨年とは異なり、暑すぎて本当に過酷だった。
ここ数年の私は、仕事の合間のマラソン出場、ライブ、旅行等のスケジュール調整に熱心で、もっぱら家でゆっくり過ごす日というものがなくなった。私の毎日は文化的な要素に本当に欠けている。
子どもたちが巣立って、家にいて帰りを待つ人がいなくなったこと、老眼が進んで本を読むのが辛くなったこと、何より仕事が以前と変わって体力より神経を使うことが増えたことから、外に出てストレス発散したくなる機会が増えたのだ。そういえば、私が本格的に走るようになったのは、更年期が始まって夜眠れないことが増えたことや、子どもたちの受験期やコロナ流行期のストレスが重なってどうにも体がしんどく、村上さんが「走ることについて語るときに僕の語ること」で、そこそこの負荷を肉体にかけ続けることが結果的に精神・身体の安定、集中力の向上につながる的なことを言っておられたのの受け売りだった。そして、ドMな私はそのことにまんまとはまって、今ではどこに行くにでもジョギングシューズを持参し、朝食前に旅先でランニングをする人になってしまった。でも、そのことは結果的によかったとも思っている。
今年も1年でだいぶ走ったなあ~。10月は金沢、2月は熊本城、3月は名古屋ウィメンズ、そして、6月の函館・・・と自分で書いてみてもびっくりするほどフルマラソンを走った。その合間には日ごろのジョグ、ハーフ入れるとだいぶ。たいして速くもないけれど、遅くもないところが癖になる要素だ。今年の夏は函館走って幕開けにしよう、そして何よりも輝かしい暑い夏を楽しみたい、たくさん遊びたい!と思っていたのだけれど、実家が地震で被災してしまった。
ちょうど両親は妹と家を不在にしていたので怪我等は免れてよかった。その後の2週間はライフラインが途絶えているとのことだったので、両親には私の家に滞在してもらうことにしたが、母は精神面が不安定になりパニック障害気味で、会話が成立しなくて大変だった。仕事も忙しく、休んで丁寧に向き合うこともできなくて申し訳なかったな・・・。孫である我が子たちもことあるごとに気にして顔を出してくれて助かった。この期間の8月初旬の暑さは一生忘れられない。
その後、お盆休みもかねて私は両親と一緒に被災した実家に帰省した。道中は戦場のような有り様で、段差ができた道をのろのろ進む車ですごく渋滞していて、いつもよりすごく時間がかかった。崩れ落ちた寺の向こうに、実家が立ったままでいてくれたのが見えたときは、皆で「よかったー!」と泣きながら喜んだ。家の中は先入りしていた男たちが少し片づけていてくれたけれど、まあまあ歪んでいて、ガラス片がありとあらゆるところに散らばっていたので、まずは眠れるための安全な部屋を整えるようにした。また、実家には深井戸があり、水が確保できたことはせめてもの救いだった。時折すごい余震がドーンと来たり、地面が波打つように暴れたりして、恐怖におののく場面は多かったけれど、とにかく私はもくもくとなりふり構わず片付けた。限られた時間でできるだけ、元の空間に戻すことに徹そうと思った。
一番ショックだったのは、自分が50半ばになり当然と言えば当然なのだけれど、頼りない両親の肩が落ちた後姿を眺めて、この人たちは本当に歳をとってしまったのだなという事実をつきつけられたことだった。かつてもくもくと元気よく煙を吐き出していた工場がある実家の町は、以前は活気があって私たち家族もその恩恵を受けて育った。地震で崩れ落ちてしまった煙突は実家からもよく見えて、歳をとった両親の姿と相まってしんみりとなりそうだった。でも、そんなことはいえない。鬼のような暑さと戦いながらひたすら片付け、手続きに明け暮れた。そして、その合間を見つけては、いそいそとジョギングに出かけた。走っていると、崩壊した家々や幼少期からお参りしてきた神社の崩壊した姿、波打ったり地割れしている地面、閉鎖している真っ暗なショッピングモール、天井が落ちてだれもいない商店街・・・まるで町が死んでしまったかのようだと思った。そして、両親の住む町がどうかこのまま死んでしまわないようお守りくださいと祈った。
あれから1か月、当時パニックになっていた母もだいぶ落ち着いて、電話で話しても会話が普通にできるようになってきた。そして、今日はだいぶ涼しくなって、ジョギングするにも風をひんやり感じれるようになった。それでもまだ何も片付いていない人ばかりだ。
私は、神戸マラソンの抽選は外れた。福知山、熊本城、琵琶湖・・・今年も頑張って走ろうと思う。
















