朝から今日も長女が「はるのゆきだるま」を朗読している。朝食後、夕飯のおでんを土鍋いっぱいに仕込んでいると、横から長女が「お母さんも、一度読んでみたらー。」というので、手を止めて一度読んでみることにする。
やっぱり、読んでいる途中から涙がはらはらと落ちてきて声にならない。なんでいつもこんなに泣けるのかなあと考えてみると、夏に亡くなった祖母のことを思い出すからなのだということに気付く。
先日私の故郷から沢山のミカンや八朔、晩白柚が送られてきて、子供たちと喜んで沢山食べた。その柑橘類は祖母が生きていた頃に手塩にかけて育てていた木々になったもので、祖母が亡くなっても例年通り変わらず実をつけ、そしてこうして私たち家族を喜ばせてくれる。
「この話を読むと、お母さんおばあちゃんのことを思い出すから泣けるのかも。雪だるまも溶けていなくなっても自分がいた場所に花を咲かせて、それを見た森のお友達の心の中に生き続けたでしょう。私たちもおばあちゃんがいなくなっても、一生懸命育ててはったおミカンを皆でおいしいおいしいって食べることで皆がおばあちゃんを思い出す。そうしておばあちゃんもみんなの心の中に生き続ける。ちょっと似てるって思わへん?」と言うと、長女も「それ、お母さん、なんかわかるわー。みんなを思う気持ちがちゃんと伝わっていて、そしてそれが私たちの心の中で生き続けるってことやねー。」なんていうものだから、私の気持ちをちゃんと理解してくれたことへの喜びと彼女の成長への喜びを感じる。


おでんを仕込んだ後は京都に。駅前の近鉄が28日で閉店するので覘きに行く。品物は随分はけてしまっていて、子供たちいわく「品物は少ないのに、人だけはいっぱいやなあ。」ほんとやなあ。それでも私はチビなので22.5センチの靴や、7号サイズやSサイズの服が案外売れ残っていたりするので侮れない。貧乏人根性丸出しで嬉々としてみてまわる。
そしてメインのキッチンファブリックのコーナー。私は茶碗蒸しが好きでよく茶碗蒸しをするのだけれど、食器は蕎麦猪口とか小鉢で代用していて、蒸し器には入り辛いし蓋をつけるのは面倒だし、容器によってはスが入りやすかったりとどれもしっくりこない。ちゃんとした蓋つきの茶碗蒸しをお料理やさんでしか食べられないのは悲しいなあと見てまわる。店員さんに聞いても「今どき茶碗蒸し家でする人少ないし、あんまし見いひんなあ。」と言われるばかり。やっと見つけたら一客5千円もするものだったりして、割るのが得意な私はさすがに買えないし、やっとこさ800円のものを見つけて5客購入して帰る。よーし!明日の夜のメニューは茶碗蒸しにしよう。